カジュラホの寺院群にある彫刻は、日常のごく普通の感覚で眺めるとエロティックな感じを受けます。しかし心を落ちつけて思考を静止し眺めていると、エロティックな感じとはあくまで私の中にあるエロに対する偏見が投影されたものなんだと理解するようになりました。

その彫刻にある男性と女性の姿に角のあるエゴの要素が見当たらないのです。肉体を小宇宙と表現されますが、この肉体そのものは神様に祝福されていて、性愛とはごく自然な宇宙の営みに他ならないのだと感じたのです。

自分を取り巻く環境では性愛というものが商業の中に組み込まれ薄っぺらに扱われています。また性愛を口にすると軽蔑されるような社会の中で生きてきた自分自身であったのです。

環境に対する慣れというものは怖いもので、私も人に話せば恥じるような快楽の一端として性愛を扱ってきたのです。 しかし私たちの肉体とは聖なる器なのだと、その感覚へとカジュラホの寺院のエネルギーは私を誘っていくのでした。


瞑想を深めながらパートナーに対する感情が変化していくのを感じていました。

尊い女神に向かい合っているかのような感覚です。 実際に女性の聖なる器たる身体とは女神のエネルギーに満ちているのでしょう。 心地よいスペースを感じているとき、感情が主体となった衝動的なエネルギーは鎮まりかえっています。

ホテルのベッドで横にいるパートナーの身体に触れる時、彼女の中の繊細な女神のエネルギーを感じていました。 私の意識は彼女のエネルギーを奉っていました。自分自身の感性が澄まされていくのを感じていくと、彼女の女神のエネルギーに触発されて自分の中の男性エネルギーが呼び起こされていくのを覚えました。

男女の出会いや合一とは、まさに男性性と女性性の出会いであり、合一なのかもしれません。

その体験は私の男女の概念を一変させました。

あの3日目の夜のワークは効果的でした。 私の場合、お母さんに対するネガティブな感情は恋愛対象となる女性に投影されて、現実を複雑にさせていることを自覚していました。

そして女性を代表した存在である母親に対する憎しみのエネルギーは未だ潜在的に私の中に漂っていました。それは理不尽な形で無関係なパートナーに向けてしまったこともあると今では自覚しています。

自分の中のエネルギーに無自覚というのは本当に危ないのですね。 しかし彼女の女神的エネルギーに意識を合わせていき彼女の神性を奉るようになると、お母さんに対するネガティブな感情にカタルシスを感じるのでした。

そのようなことから男性は一度、女性的エネルギーに対して完全に屈服し女性的エネルギーに包まれなければいけないのかもしれないと思いました。

男性は女性から生まれたわけですものね。 その女性的エネルギーに完全に委ねることから、男性はエゴから解放され、自己の本質である男性エネルギーに生きられるのかもしれません。 自己主張が強く、力で勝ることが男性性ではないのです。 もしかしたら多くの男性は男性性を知らないのかもしれません。

自分を明け渡して女性的エネルギーに平伏すところから男性性は息を吹き返す。 それが男性の喜びなのではと私は感じました。

このリトリートを通して私の中のトラウマの根のようなものに光を照らすことで何か昇華され気が通りやすくなったのではと感じます。もう10日が過ぎ去ろうとしていますが、「今」という瞬間の内なる感覚に確かなものを感じてきましたから本物なのでしょう。

インド旅行はパートナーのかねてからの希望でした。

素晴らしい体験と気づきを与えてくれた彼女に心から感謝しています。 そして私にとって尊い体験へと導きシェアしてくれたウッタムやトーシャンをはじめとして皆さんに心から敬服いたします。ありがとうございました。今後とも宜しくお願い致します。


(男性)